宗教の一般化

価値判断や、行動基準を与えるものを「宗教」と呼ぶならば、現代社会は宗教に満ちていて、それらはしばしば排他的で、既得権拡大に奔走しているように見える。

振り返れば人生において、入学とか、就職、転居というのは、「宗教」を選択する行為であった。 学校や会社、地域には、それぞれ独自の価値体系があり、それが自らに合っているか否かで人生の幸福度が大幅に違ってくる。 間違った宗教に入る事は、時に危険を伴う。

京都で最大の宗教は「京都」そのものである。出身が厳しく問われる。今宮戎福娘は投票で選ばれるが、葵祭のヒロインは、家柄が重視される。京都新聞を読み、世界情勢などには興味が無い。
http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090413112.html

京都で2番目の宗教は、「京都大学」である。 毎年3000人が入信し、多額の税金を使って研究する権利が保証されている。 大学の名を汚す行為が厳しく叱責されたり、他大学出身者が差別されるのは、「宗教」である事を考えれば当然である。
http://mainichi.jp/area/kyoto/archive/news/2009/04/08/20090408ddlk26100456000c.html

エホバの証人モルモン教は、カルトに分類されるが、真のカルトは、会社や家庭、教室や研究室の中など、閉ざされた空間にあるものだと思う。営業成績の悪い社員が、皆の前で吊し上げられたり、酒飲みの親が、自分の子供を殴りつけたりする事はしばしば発生している。
http://www.geocities.jp/sonomama_da/index.html

文字どおり自らの創造者である「親」に殴られた子供は、アイデンティティーを見失うであろう。 子供のアイデンティティー喪失を救うには、家庭を超えた価値観が必要であるし、社員のアイデンティティー喪失を救うには、会社を超えた価値観が必要である。

一般に「宗教」が必要とされるのは、そのような場合である。