自然はなぜ美しいのか?

「自然がなぜ美しいのか?」 と問われれば、生き残ったからだ、というのが答えだと思う。つまり、その背後には、消滅した生命が多量に存在しているはずだ。

先日、動物行動学の日高敏隆先生が亡くなられたが、動物行動学や、生態学は、現時点における生命の形態や行動の多様性、環境との調和性などを明らかにしてきた。
http://osaka.yomiuri.co.jp/university/topics/20091124-OYO8T00601.htm
http://ameblo.jp/kagaku/entry-10099775342.html

しかしながら、それらの多様性が如何にして生じてきたのか? と考えれば、それは各生命が、生き残りをかけた壮絶な闘いを演じた結果、獲得したものであると考えざるを得ない。

例えば、米国には17年ゼミが居るが、なぜ17年という半端な数字なのか? その背後には、滅んでしまった多くの生命、12年ゼミとか、8年ゼミとかが居たはずである。 創造主も、我々技術者同様、試行錯誤を繰り返したに違いない。
http://www.youtube.com/watch?v=ueycCqmU9Fw

これら「試行錯誤」は、「発見」を重視する「科学」では余り対象とはならず、「技術」の分野の課題であった。 例えばパソコンにしても、技術者は、驚異的なスピードで進化させてきた訳である。そして進化させる努力の過程で、「美」が宿るのを見てきた。

システムトレードにしても、生き残るシステムを設計する事は極めて難しい。トレーダーは相場環境に合わせて、システム(プログラム)を、絶えず進化させる必要がある。 

失敗の代表は、「過剰最適化」である。 ある期間に最適化したシステムは、それより長い期間で見た場合、生き残れる保証はないのである。これはヘッジファンドの破綻や、先日の経済危機でも実証されている。

恐竜が巨大化したのは、その時の環境に最適化した結果であろう。 巨大恐竜の繁栄は、最適化の成功を示している。 しかし、もっと長期でみれば、それは「過剰最適化」であり、環境の激変に生き残る事は出来なかったのである。

年金などの社会制度にしても、システムの存続が危ぶまれているのは、過去の人口構成に過剰最適化した結果である。 企業にしても30年以上、生き残るのは僅かである。現代の資本主義体制にしても、将来も続くという保証は何もない。


だからこそ、生き残ったものは美しいのだ、と秋の哲学の道を歩きながら思った。
梶井基次郎が、「桜の樹の下には」と歌った事は真実である。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/427_19793.html


桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
これは信じていいことなんだよ。何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。