科学と宗教の関係

「科学は21世紀の宗教になり得るか?」 というのが、ここ数年考えていた事であるが、やはり無理なんじゃないかと思う。

人々が科学カフェにやって来る理由として、「科学者の話から、自らの存在を再確認する事、丁度、人々が教会で神の前に自らを再確認するように」、という仮説を立て、最新の科学成果で、宗教をバージョンアップできるのではないか? という野望を抱いたが、やはり無理があることが判った。
http://www.mankai.biz/archives/2008/02/post_314.html

というのも、自然界の認識というのは、階層構造になっていて、各階層の間には越えられない壁がある。 物理学者は、TOE(Theory of Everything)などと言っているが、素粒子が解ったとしても、分子に生命が宿るプロセスは解らないし、生命が解ったとしても意識が宿るプロセスは解らない。 宇宙の中に人間が出現するプロセスは科学的に謎である。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/toe

素粒子論にしても、現在研究されている標準模型は、最終理論にはなり得ず、クオークは本当に基本粒子なのかも解らない。 即ち、どんどん皮を剥いていっても最終理論には辿り着けず、ある領域で適用可能な理論が存在するだけである。
http://ameblo.jp/kagaku/entry-10241840110.html

そう考えると、科学と宗教は矛盾しないことが解る。 宗教はあくまで「人間社会の真理、法則」であり、「聖書(創世記)は非科学的だ」、という非難は、ニュートン力学を相対論的領域に適用して、成立しないと言っているようなものである。逆に科学法則から人間社会を論じるのも限界がある。

科学と宗教の対立として、「進化と創造」の話がある。アメリカのキリスト教原理主義では、学校でも進化論は否定されていて、「デタラメ教えられるなんて、可哀想な人々だ」、と思っていた。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070405_god_satan_kill/
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/comment/060622.html

しかし違うのである。 エホバの証人の方に、テキストにも使われているという「生命ーどのようにして存在するようになったか、進化か、それとも創造か」 という本を見せていただいたが、はっきり言って、日本の理科の教科書よりも、はるかに面白い。

そこには、「自然はいかにうまく調和して出来ているか」、という驚きが、様々な具体例を挙げて書かれているのであり、(それが神によるのかは別にして)、科学者の研究の動機と共通する感情がある。 理科教育の本質とは、自然に対する感性を磨く事であって、花の構造と各部位の名称を記憶することではないはずだ。